After the Gold Rush(2001-2004)

「ニュー・エコノミー」
誰かがそう言っていた
今振り返れば もの笑いだね
500年前のチューリップと
同じゲームを繰り返しただけなのさ
法外なキャピタル・ゲインを夢見る前に
君のファンダメンタルズを見直した方がいい
What are you dreaming of in this city life
After the Gold Rush?

#1: Goodbye Small Town

もう若さとは 呼べなくても
夢の行方 忘れていない
ためらいと 退屈を もてあますようなMy Life
冷えてく この胸に もう一度 歌を聴かせたい

Goodbye Small Town 何かを捨てて
未来の地図は 初めて見えるのさ
Goodbye Small Town 別れを決めて
今気づいたよ いつだって「ふるさと」さ
I call you my hometown

「Goodbye Small Town」 Morihiro 2004

夏の日。
引越し屋のトラックが去り、あっというまにがらんどうになったアパートの部屋の真ん中で、僕は、「どうして幕引きとはいつもこんなにもあっけないものなのだろう」と、考えていた。
夕べ、彼女とふたりで、近くの那珂川の河原で、夜の闇の中、花束を川に流して、8年間の福岡での暮らしにさよならを告げた。この年月は、僕のわがままに過ぎなかったのか、それとも、住み慣れた土地を離れて過ごした彼女の人生にとってもそれなりの意味を持つ時間になってくれたのか、それを問う勇気さえ、僕は持っていなかったけれど。

その後しばらくして、久しぶりに訪れた駒場。冬の短い日はとっくに暮れている。「まるか」でラーメンを食べて人心ついたあと、キャンパスをめぐる。僕は銀杏並木の果てにある2号館を中庭から見上げながら、まだ、「IT革命」という言葉さえなかった時代、インターネットの商業利用も、WINDOWS3.1も存在しなかった時代に、図書館の486DXのパソコンと向き合いながら、必死に未来を探ろうとしていたあの頃の自分の幻を探していた。
たった8年間の時を経て、ここにこんなふうに戻ってくるなんて、決して想像していなかった、と思う。その見こみ違いは、やはり後悔と呼ぶべきだろうか。しかし、もし、時計の針を元に戻せるとしたら、僕は本当にこの8年間の出会いを全てなかったことにしてでも、この場所から時をやり直したいと思うのだろうか。
いずれにしても、その想像は仮定でしかなく、過去とは常に既定の事実であり、その意味では、僕にできることは、未来への前進のみなのだろう。もう、心の中で幾度も繰り返したことだけれど、いつもたどりつく結論は、ここでしかない。

P.S.
その後、僕が若き日を過ごした、かつて「KME」と呼ばれていた会社は、再編で、「PCC」と名を変え、事業構造も変革し今までとは違う形での再生の道を歩んでいる。上場廃止で業績は伝わってこなくなってしまったが、街角の電気店で見かける限り、元気でやっているようだ。多くのなつかしい面々が去っていったが、今は、残った仲間たちの健闘を祈りたい。

#2: Meaning of Life

ありがとう まだここにいて
歌を聴いてくれて
全ての 弱ささらけだす
僕を 受けとめて

ねえもしも 許されるなら
僕を 問い詰めないで
あなたのいう全てのこと
僕を 惑わせるから

「Dear Lord, Dear Listeners」 Morihiro 2004

2001年12月
朝のニュースで、伝説のダイバー、ジャック・マイヨール氏の自殺のニュースを知る。ダイビングに興味はなかったけれど、以前九州でいつも乗っていた大橋タクシーの座席の広告で、唐津シーサイドホテルのキャッチフレーズに「ジャックマイヨール氏の常宿」とうたっていたのを毎週見ていたせいで、その名前は知っていた。
そして、その理由としてとりざたされているのが「人生に目標がなくなったから」だということを聞いて、僕は、何かとてつもない深い闇をのぞきこんだような気持ちになった。
そういえば、昨日、船橋の教会で、ベアンテ・ボーマン氏のコンサートでのクリスマス・メッセージで「とても快活だったチェロ仲間がある日突然自殺した、本当は心の中はとてもむなしかったのかもしれない」という話もあった。何が満たされれば幸せで、何が満たされなければ不幸せなのか、それとも、そのようなものさしを用いること自体が間違っているのか。

2002年4月 Emptiest Feeling
何かが違う気がしていた。何かが足りない気がしていた。
でもそれが何なのかつかめない、穏やかな苛立ちが心を包んでいた。
朝、いつものように九段下の駅を降りて、Sony VAIOの広告ポスターに埋め尽くされたフロアを通り過ぎ、エスカレーターを、立ち止まったままで上っていく。どこかの大学の入学式に向かう人の列が向こう側のお堀沿いの道を進んでいく。
すっかり葉桜になったストリートで、風にまだ舞う花びらの風情は客観的には素敵だし、都内有数の風景であることは十分に承知している。けれども、どうも気分的にはしっくり来ない。飽き足りない。
昼休み、マクドナルドで昼食を買って、テイクアウトで千鳥が淵のほとりのベンチに腰掛ける。日差しはもう初夏の香りで、おそらく東京23区で望み得る最高の風景に身を置いているだろう。しかし、その客観的な特権とは裏腹に、僕の心は何かちぐはぐだった。別に不幸せとはいわないけれど、僕がいつも求めているExcitementとは何かが違う。

「You can relax.」

そう自分に言い聞かせる。そう、別に無理してトキメキを追わなくてもいいのかもしれない。でも、同時に気づく、My Restless Heart. 安らぎを心から楽しめない自分がいる。

コタエガミツカラナイ。そう、言い聞かせているけれど、響きはとても虚ろ。

2003年5月
「My Hometown」ということについて考えてみた。
首都圏の地図をぱらぱらとめくりながら、時間と空間について思いをはせてみる。
過去に経験した全てのこと、自分が選んだ全ての選択、後悔などどこにもない。成功とは呼べないものもあるし、屈辱的なシーンもあったけれど、全ては今の自分をつくる糧になっているという確信は揺るがない。
そして、キーとなる事実は「望んだものは、必ず手に入る。大切なのは、夢見る力」本当に、心から、覚悟を決めて望んだものは、必ず手に入れてきた自分だからそういえる。
東京という場所、どうして、いまひとつ、たいくつなのだろう、とずっと考えてきた、そして、ふと気付いたことがある。
ふるさと、とは、心落ち着く場所、とは、場所そのものの属性から来るのではなく、一緒に過ごした誰かや、そこで行った何かから生まれるのではないだろうか?だから、通った学校を再訪しても、もうともに過ごした仲間もいなくて、自分はそこで成し遂げたことも、過ぎたことになってしまっている今では意味もないのだろう。
その意味では、過去そして現在、ふたりで暮らし始めてから、10年の年月と3回の引越しを経ても、彼女と過ごすこの場所がいつもたったひとつのふるさとなのだろう、と思った。

#3: August Song

流れ落ちる涙のしずくと
雨のしずくがひとつになる
透き通った水の中に
あわい面影が浮かぶ

誰もいない道の向こうにむかい
あの人の名を呼び続ける
時の流れに溺れた人は
二度と帰らない

「斑鳩雨に濡れて」  Morihiro 1984

2001年、8月のこと。
TVでは連日小泉首相の靖国参拝問題が話題となっていた。
小泉さんの見解は明晰なものではあったが、たったひとつ僕の印象に残ったのは、A級戦犯合祀のことにずばり話題が及んださいに、結局、言葉を濁し説明を避けたことだった。そのとき、僕は、松下幸之助が戦争に対してとった見解ととても似たものを感じた。

自伝などによれば、彼は太平洋戦争が終わった時、「これからは平和産業の時代だ、日本の復興のために生産に励もう」、とこころざし、労使一体となって、GHQに対しての財閥指定解除嘆願等の活動を行ったと記されている。
その一方で、松下電器が戦時中、軍国体制に「積極的に協力」したのは事実である。飛行機、船舶など兵器生産も手がけ、また戦争遂行への協力を呼びかける社名入りポスターも残されている。そのこと自体は、その時代に日本で経済活動をしていた企業として、仕方ない面もあっただろう。
しかし非常に残念なのは、戦後、松下幸之助に関連する本は山ほど書かれた中で、当時の松下電器が戦争協力を行ったことに対する評価(それが反省であれ正当化であれ)について書かれたものは殆どない。戦争について語ること自体をせず、全てを忘却の彼方へ放り投げて、経済復興に没頭し、今日に至っているのである。

「太平洋戦争の敗北で国土と国民に多大な損害を与えた責任は誰にあったのか?その責任は終戦当時明確に問われたのか?」この質問を、終戦当時5歳だった父に聞いてみたが、残念ながら明確な回答は得られなかった。ましてや戦後生まれの小泉さんにそれを論評せよというのはそもそも無理な話かもしれない。
高校生の時に読んだ歴史の教科書では、「終戦直後には『一億総懺悔』という言葉が流行し、その後『全て東条が悪い』という世論となった」と読んだ記憶がある。いずれにせよ、東京裁判は、戦勝国による戦勝国のための裁判でしかなく、日本人は自らの家族と国家を破滅に追い込んだ為政者の責任を自ら問うことはなかった。50余年の時を経て、バブル崩壊後の世の中、経済戦争の戦犯たちも、その殆どは責任を問われることなくのうのうとしている。

そして、2003年8月15日
毎日、九段下の駅で地下鉄を降りて、階段を上り、靖国神社の境内を通って勤め先に向かう僕は、今日、土砂降りの雨の中、機動隊員達がレインコートとヘルメット姿で場を固める姿を見た時、この場所にとって今日が特別な日であることを久しぶりに思い出した。
境内にはテントが張られ、既にたくさんの喪服姿の年配の人々が隊列を組んでいる。そのかたわらで、ぬかるみの段差にはまって動けなくなっているワゴン車を、ずぶぬれになりながら必死に推している人々の姿が、今の日本の現状を象徴しているような気がなぜかして、せつなかった。
観光バスを降りた、山形県の遺族会の人たちが境内を慰霊会場に向けて歩いていく。そのさりげない姿の中に、このひとたちのすごした青春の色が特別なものであったことを無言のうちに語っているようだった。

1945年8月15日、どんな天気だったのか、正確には知らないが、当時の写真を見ると晴れていたようである。しかし、やはり、こんな土砂降りの雨の方が、この記念日には似つかわしいのかもしれない。

いつか、夫婦でぶらりと立ち寄った古本屋で、昭和天皇の写真集をめくっていると、彼女が「戦争の後の昭和天皇って、なんか感情をなくした人間みたい」と言っていた。あらためて写真を見てみると、たしかに、戦前の写真は笑っていたり、すましていたり、人間らしい表情が感じられるのに、戦後の写真は、どれもこれも、感情を失った仮面のような表情ばかりに見えた。
戦後、悲惨な敗北の責任を取ることはおろか、自らの戦争体験について、語ることさえも許されず、既に死んだはずの時間を40年以上に渡って生きることを強制された彼にとって、人生とはもはや牢獄でしかなかったのかもしれない。

#4: The End of Innocence

San Francisco Airportから 日差しを追いかけて
101下れば そこはもうシリコンバレー
San Mateo, Redwood City 素通りしたなら
君が待ってるMenlo Park もうすぐたどり着く

二人の 夢を追いかけた Stanford Campus
ガレージ通った Mountain View

Sand HillのVenture Capitalist 相手にされなくて
何度も書き直した僕らの Business Plan
時代は Roller Coasterみたいに過ぎていくけれど
あの頃描いた 夢は変わらずにいるよね

「California Sunshine」 Morihiro 2006

アメリカ出張前、日曜日の午後、出発前の長い待ち合わせ時間を、彼女といっしょに出発ゲートのロビーで過ごす。うす曇の外の景色にかすみのかかった太陽がにじんでいる。
成田空港にくるなんて、なんてひさしぶりだろう。彼女をイギリスに連れて行ったあの時以来かも知れない。ふたりで歩んだ10年間の思い出は、重くは無いけれど、ふたりのきづなを確かにしてくれた、と、少なくとも僕は信じられる。そんな気持ちを確かめてから、僕は、15年ぶりのアメリカ、そしてはじめてのシリコンバレーへと旅出った。
月曜日の朝、サンノゼにほど近いビジネスホテル。目覚まし代わりのラジオからは典型的なウエストコーストロックのサウンドが流れる。かつて、あれほどまであこがれたのに、そのサウンドにさえもうあまり心ときめかなくなっている自分がちょっとさびしい。ホテルのプールサイドが見えるテラスで、ちゃんと溶かしていないインスタント味噌汁の、味の無いうわずみと味の濃すぎる底に辟易しながら、僕は自分がもう早くもホームシックにかかっていることを自覚し始めていた。
食後のデザートで、オレンジ色のメロンと黄緑色のメロンにまざって、スイカが混ぜてあるのはどうしてだろうと考えながら、ああそれは、きっと「Watermelon」というくらいだから、同じカテゴリーなんだろう、と思ってみたり、ちょっとした発見はあるけれど、そんなことに気付いたところで、人生を変えるほどじゃない。
ベッドのリネンを自分で直すことさえ、僕の寂しさを微妙にかきたてる。旅は人を変えてくれるけれど、長旅が人をプラスに変えるのか、それともマイナスに変えるのか、は、結構微妙な問題かもしれない。尾崎豊が、ニューヨークで暮らしても、結局何も得られなかったのは、こんな気持ちをほうっておいたからだろうか、と想像した。

仕事の合間の昼食は車で少し離れた日本料理店(というか、定食屋)に繰り出す。浜田省吾の「夏の終わり」を彷彿とさせるような青空の彼方には、あきらかな砂漠の風景である山なみが見えている。その下に広がる、国道16号沿いをスケールアップさせたような風景は、ダイナミックであるけれど、やや、僕のココロをとりこにするものとは違うようだ。初めてこのカリフォルニアの空に出会ってからもう15年、僕はその間、フロンティアを夢見て、憧れを育み、そして世界を知った。しかしそれは、同時に夢見る対象をすこしづつ減らしていく過程だったのかもしれない。

夕方、僕はFry'sに立ち寄った。久々に見る、Panasonicのコードレスフォン、価格破壊の中でも相変わらず頑張っているみたいだ。もう、あの頃に帰りたいというノスタルジアは決して感じない。僕はきちんと過去に決別し、未来を目指そうという気持ちなってはいる。でも、その思い出の価値を軽んじることは、僕はこれからも決してしないようにしたいと思う。いつも、わすれてはいけないこと、それが、「I was raised in Panasonic.」このひとこと。誇りを持って。そしてカリフォルニアの風は、昔も今も、一貫して僕に同じ質問を投げかけている。Where do you want to go today? と。